1938年東京生まれ。慶応義塾大学文学部卒業後、63年フジテレビに入社。アナウンス部に配属される。82年に報道局報道センターに異動、スポーツ担当デスクを経てスポーツ局スポーツ部に異動。88年に日本衛星放送株式会社に出向となり、98年にフジテレビに復帰。定年により退職後、WOWOWと契約。スポーツアナウンサーとしてテニスやサッカーなどワールドスポーツの実況で世界を飛び回る。
著書:「WOWOWの岩佐ですが、何か?〜スポーツアナの自分史〜」
※上記プロフィールは取材当時のものです。
元フジテレビアナウンサー
1963年にフジテレビに入社して19年間アナウンサーをした後、WOWOWでマイクの前に戻るまで、8年半のブランクがありました。フジテレビで上司とケンカして自らアナウンス部を出たんですが、他の部署にいる間も、TVでスポーツの試合を見ながらシミュレーションして、頭の中でずーっとしゃべってました(笑)。 放送されている実況を聴いて「僕だったらこうしゃべる!」と思いながら。後悔と挫折の8年半だったけど、いつかまたしゃべりたい、という思いを持ち続け、完全に負けてしまわなかったことが、67歳までスポーツアナを続けてこられたパワーにつながったと思います。8年半も実況の現場から離れて復帰したスポーツアナって、なかなかいないと思いますよ。
僕の実況のモットーは「さりげなく」。いま流行りの「絶叫タイプ」は、視聴者が求めてる実況とは違うと考えています。肝心なシーン、例えばいいゴールやショットが決まった時、僕はあえて「黙る」。その瞬間にどっと沸く歓声を聞かせるほうが、視聴者は喜ぶと思うし、音声さんもよくわかっていて、そういうシーンだとノイズのほうを上げてくれる。感動を呼ぶシーンを、絶叫や、用意した言葉で飾り立てるのは嫌なわけです。2004年アテネ五輪体操で「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」という実況が話題になりましたが、事前に用意した言葉というのはどうも・・・こういった流行りのスタイルは、ディレクターが成長しない限り続くでしょうね。「とにかく実況で盛り上げろ」と制作側が要求してたりして。用意した言葉ではなく、その場で起きていることを的確な言葉で伝える、というのが、本来のアナウンサーの腕の見せどころじゃないかと思いますけどね。
スポーツアナは、今でこそ画面に顔を出すことも多くなってきたけど、地道な仕事。バラエティ番組に出てチヤホヤされたほうが、下調べや勉強もさほどいらないし、手っ取り早く顔も売れるということもあって、スポーツアナを目指す人が減っているような気がします。99%アドリブなわけだし、勉強も必要だから一人前になるまでが大変。10年はかかります。でもいい実況ができた時の満足感は、他のアナウンサーの仕事とは比べ物にならないものだと、アナウンサーを目指す人には話したりしているんですけどね。今は放送されるスポーツの種目や媒体も増えて、活躍の場が広がっているから、スポーツアナにとっては夢のような環境だと思いますよ。力さえあれば、チャンスはありますから。僕も67歳までしゃべれるなんて、アナウンサーになった当時は考えもつきませんでした(笑)。
去年の9月にWOWOWとの契約が終了して、今はブログを書いたりしてのんびりしながら、次のステージへと考えています。実現は難しいかもしれないけど、各局でスポーツアナを志している”現役”のアナウンサーたちにアドバイスをしてあげたい、と思っています。今、母校である慶応の放送研究会で教えたりもしていますが、学生にあまり専門的な話をしても意味がないと思いますし。僕が経験したことの中で、現場で役立ててもらえるようなことがあれば、地方局などで直接アナウンサーに話してみたいですね。今までそういうシステムってないから、「元局アナnet」で早急に企画してくれるとうれしいなぁ(笑)。ボランティアでいいから、何らかの形でスポーツアナを育てる力になりたいと思いますね。
(2006/05/2 目黒雅叙園にて)