関西学院大学卒業後、82年テレビ新潟にアナウンサーとして入社。85年に退職後、地元大阪の毎日放送で「MBSナウ」のキャスターとして活躍。その後アメリカやヨーロッパ旅行を経て、1990年からは活躍の場を東京に変え、TOKYO FMのレギュラー番組から始まり、パーソナリティー、ナレーター、司会などTV・ラジオで活躍。現在はTOKYO FM「坂上みきのビューティフル」(月〜金)をはじめ、軽快なトークと美声で、日本テレビ「金曜ロードショー」など多数のTVナレーション、雑誌の映画コーナーでの連載などでも活躍中。
※上記プロフィールは取材当時のものです。
元テレビ新潟アナウンサー
多方面でご活躍されている坂上さんですが、当時の就職活動について教えてください。
大学時代はずっと体育会の馬術部で厳しい練習をしていて、就職活動が始まる春休みぐらいから、さて私は何をすればいいのか、と考えたときに、一日中机の前に座って事務仕事をするというのも考えられなくて、「そうだアナウンサーになろう」と、4年生の6月頃から生田教室という、アナウンサーを養成する地元の私塾に通い始めたんです。その教室は、「どこでもいいから地方局を受けて、まず局アナになるべき」という方針で、私も9月からアナウンサー試験を受け始めました。勉強を始めたのが遅かったし、先生には「あなたなんて通りませんよ」ってボロクソに言われてたのが、何社か最終に残ったりし始めると「あなたはいいですねー!」とコロッと変わられて(笑)。結局12社受けて、テレビ新潟に入りました。
テレビ新潟に入社されたとの事ですが、新潟での生活はいかがでしたか?
それまで新潟には行ったこともありませんでした。最初に行ったときはプロペラ機で(笑)、ものすごく揺れて、田んぼに雪、という風景を上空から見て、「本当にここで暮らすの??」って感じでした。最初は自分の大阪人気質と、新潟の人たちの気質とのギャップがあって、馴染めなかったですね。口を開かないのが美徳、という新潟の人からは、、私はずうずうしいと思われたりして。でも、当時上越新幹線がちょうど開通したときで、川端康成の「雪国」のイメージどおり、東京出張の帰りに、「トンネルを抜けると雪国・・・」というのを目の当たりにしたときに、「帰ってきたー!」と感じました。 2年くらい暮らして、やっと私は新潟の人になれたんだなぁと思ってうれしかったですね。
その後、地元大阪に戻って仕事をして、次に東京にステージを移して・・・若いうちはやりなおしがきく、という感覚と、安定したものを「壊す」勇気もあって、うまくいかないわけがない!という根拠のない自信もありました(笑)。ラッキーなことに節目節目に帯(月〜金)のレギュラーがつきましたし、大きな変化の裏で、毎日毎日小さく積み重ねることができたのはよかったですね。毎日出演している以上は、「私はこうです」と自分を表現する場を与えられているわけで、誰かが見てくれている、聴いてくれている。そうしているうちに、ナレーションの仕事が来たりして。「仕事=営業活動」という面がアナウンサーにはあるので、自分で自分の商品価値を上げて、むこうから欲しいといわれる人材にならないと、と思ってやっています。
とってもパワフルな坂上さん。そんな坂上さんならではの仕事のスタイルについて伺いました。
私の仕事スタイルですか・・・いつかギタリストのCharさんが、石井竜也さんのバンドとセッションしたことがあって、すでに練習を始めているバンドに「へへっ」という感じで一人で乗り込んでいって・・・「俺はギター一本やで!」って。それが「一匹狼」ぽくてすごくかっこいい!と思った。私も「マイク一本やで!!」(笑)。誰かと何かをつくっていく、というタイプではなく、「私はこうでございますから、よかったらどうぞ」という職人気質な感じ。坂上みきはそういうスタイルでいくと、今、決めました(笑)。
(2005/03/18 南青山にて)